昭和40年02月15日 夜の御理解
信心をしておると、目に見えるお蔭より、目に見えぬお蔭の方が多い。目に見えるお蔭、目に見えぬお蔭、どう云うような事をさして、そういうておられるだろうかと。
原さんの姪に当たられる方が、神戸の方に行っとります。先日その主人になる人が、劇薬が目に入って失明するかも分からないと、お取次ぎを願うという電報が参りました。私は主人の事をお届けさせて頂いていたんですけれども、昨日、朝でしたでしょうか、電報が参りました。おかげを頂いたお礼を申し上げてくれとと云う事でした。
それでもやっぱり和田さんと云う方、和田さん所のですがそれを原さんから、昨夜聞かせてもらったんです。それも姪娘さんのよう子さんから、先日広大なおかげを頂いて、あれはあのミツロウさんですか、よし子さんが大火傷をする所を寸前でおかげを頂いた。お礼申し上げてくれと云う。ね、これは和田さんだけの事じゃないですけど。
これは前の日だったですか、日田の中野さんが踏切でたしか両方こう見てから行ったんですけど自動車で、ところがまだ来てないと思ったもんですから、踏切った途端にもう、向こうからゴ-と汽車がやって来てから、どうもこうもしょうがないから無我夢中でなし、前方に向こうへ渡った。汽車が通ったのがもう一緒だったち。駅の近くだったもんだから、駅員の方達が走って来てから、これは大変怒られるそうですね。
けどももう怒るだんじゃない、「良かったですね、良かったですね」言うて、そのもうとにかく、話しを聞いばかりで身が震るうようなとゆうてから、お礼に出て参りましてから、御神米を上に、大きなバンドで、こうやって締めて、上におまつりしてあるのが、プッツリ切れとった。もう将しく、神様が身代わりになって下さったと云う感じ、実感をせん訳にはまいりませんですね。。
昨日は宮崎さんの姉さんです、かず子さんのその昨日が棟上げでございました。手伝いに見えとった。夕方何もかも終わって外へ出られたのと自動車があの追い抜こうとしてから、スピ-ドでやって来たのともう一緒だった。間髪を入れずもう自動車はあの井上さん方のちょっと先の内田さん所で、急ブレーキかけて停まってもうしもうたと思って降りて来たんでしょう。片一方の方ももう本当にスレスレの所でお蔭で助かった。
本当に昨日は、私ちょっとここにあの飯台を借りにこらせて頂いた。もうほんについでのようにしてから、ここにお礼させて頂いて拝まして頂いとったけん、まぁその功徳で助かったとゆうて、昨日わざわざお礼に出て見えたんですけども、まぁ本人から聞くと、実感としておかげ頂いたと云う、その何ですね。これは松岡さんの妹さんの、畑さんと云うのがおります、これなんかも娘さんが大火傷をしたんですけども、昨日お礼に出て見えましたが、顔にかからんならんのが手で防いだんですね。
ですから娘さんでしたから、おかげで顔にかからずに、だか、今のところちょっと、こうそれがですね、夜中の事で非常に痛んだらしいですけれども、御神米と御神酒さんをつける事を忘れた。他の薬のあれがよかと言うて、それをつけたところが痛んでたまらなかった。もう泣き出した。娘さんがもう高校に行っている大きな娘なんですけれども、それから御神米御神米と思うてから、その御神米と御神酒さんをつけて、おかげ頂いて痛みも止まって明くる日医者に行った。
顔はこれ傷はいかん、手には傷がいくかもしれんけれども、そのまぁ大きな傷にはなるまいと、まぁゆうてくれておるのですけれどもというてお礼に出て見えたのですね。まぁどの話しでもこの話しでここ一両日の間に、私は云うなら奇跡的なおかげを頂いたと云う話しなんですけれどもね。これなんかはもうはっきり目に見えます。ね、目に見えるおかげ、お参りさせて頂けゃ、頂くがたあると見えるおかげ、心を神様に、ちょっとうち向けた時には、もう、必ずそれが目に見えたおかげになっておる。
これは間違いない事ですね。心を神様にうち向けたら、形におかげを頂いておると云う事。目に見えないおかげ、その目に見えるおかげよりも、目に見えんおかげの方が、多いとおっしゃるのですから、多い方のおかげとは、どう云うようなおかげか、それは神様が、もうそれこそここは無限、限りがなかろうと思いますけれどもね、私はもう目に見えないと云う事は、自分の心に感ずるお蔭だと思うですね。
自分の心の中に心が助かる。心が有難い。目に見えないでしょうこれは。自分だけしか所謂大師様が、この空海の心の中に咲く花は弥陀より他に、知る人ぞないだろうと、こう言うて、その自分の心を拝まれたようなもんです。信心さして頂いておればです、段々ねさぁ磨かして頂く事ぞ改まらせて頂く事ぞと、日々信心の稽古に通わせて頂いて、その事を頂くからいつの間にか悪い事は出けん、神様に喜んで頂くような、有難い心の状態にならせて頂く稽古が、いつの間にか出来てゆく。
そしてその有難いと云う心がです、いつの間にか育ってゆく。ね、有難い。有難い。目に見えないおかげと」云うのは、私まぁそれこそ限りのない事でございましょうけれども、私は、自分の心の中に観ずるおかげだと思いますね。そして思うです、目に見えるおかげ、それは、そのままの物、ね、けれども、目に見えないおかげと云うのは、そのままが徳になるおかげと、私、思うんです。ね、
ですから皆さん目に見えないおかげ、心の目に見えない心に感じておられるおかげが、どのくらいに感動的に躍動的にです、その有難いと思う事が形の上に現されておるかと、まぁ形の上に現されている何事もして、自分の心の中にですたい、有難いなぁ信心頂いておるちゅう事は、有難いなぁと感じておられるかと云う事。それが感じる度合いと云う物が、薄ければ薄い程です所謂、本当に教えを行じていないのであり、神様に喜んで頂くような奉仕が、出来ていないのであると云う事になるんですよね。
先程夕刊がまいりました。最近あの宗教欄と云うのがございますね、宗教欄に小さい字で、古賀先生から読んでもらったんですけれど、写経の功徳と云う言葉がある。経文を写す、ね、それが後の世に残ってゆく。自分もその書く事によって心が清まる。もうこれは大した事だ、と云う意味の事が経典の中の法華教の中に出てるそうです。私、それを頂いて途端に有難いなぁと思って、久保山先生は随分と徳を受けられた方だと思うですね。15年間、いわばここで云う聖書ですよねあれは。
私の話しを書き留めておられるのです。おそらく自分も気が付いておられんと思うです。こげんとが私、目に見えんおかげじゃなかろうかと思うね。一生懸命神様に喜んで頂く御用を、させて頂いておるのです。なぜって私が朝晩こうやってお伝えして頂く事が、私の考えでお話しておるのじゃないですもんね。いつも神様にヒントを頂き、お知らせを頂いてから、神様のお心を、皆さんに伝えておるのですから。ですからこれが、書物に残されたら、これは、もう聖書だと、私は確信致します。ね。
15年間のものがです、しかも毎日毎日、ああして、それを行のようになさっておられると云う事は、所謂写経の功徳、所謂、法華教に出ておるそれと匹敵するようなです、功徳を積んでおられると云う事を感じるのですよ。ね、ですから、どうでも皆さんがです、ここへ信心の稽古に通うてこられてから、目に見えるおかげも頂かして頂きながら、目に見えぬ心に感じるところの有難いとか、勿体無いとかと云う心。
我と我が心が拝みたいような心、そう云う状態になる事を楽しみに、信心さして頂くと同時にです、そう云う心でです写経、所謂経文を写すような御用ができなくともです、まぁささやかながらでも神様に喜んで頂くような、御用がなされなければいけないと云う事が分かるでしょう。皆さんここへ来たら雑巾の一つぐらいは持ちなさいって、ここへ来たら帚(ほうき)の一つぐらい持つ気になりなさいって、ここへ来たらたまにゃお便所のお掃除の一つぐらい、そりゃまぁ奇麗にしてあってもいいんですよ。
もう奇麗だからええって事はないんですよ。たまにゃお手洗いの水ぐらい替えさせてもらいなさいと、それがどうでしょう、日々です、これだけは、せめてこれだけはと云うように、久保山先生のそれじゃないですけれども、日々の功徳がです、目には見えない、大きなおかげになり、お徳になると云う事を思う時です。只、参って拝んでおると云うだけではなく、何かそこに神様に喜んで頂くような、自分で工夫されてから何かです、何かそこになされなければいけないと思うですね。
ある有名な先生は、三度の食事を二度にされた。一度だけは、神様へのお供えとしてから積み上げられた。それが一升になると、教会にお参りされるのが楽しみで参られた。それを取次された先生がです、まぁ、今日の御理解の言葉で言うならです、「この功徳によってです、千人の神にたたせてやる」と云う、神様のお知らせ頂かれたと云う事です。その、功徳がです、千人の神にたたせてやるとこう、だから本当にその言いたい放題、したい放題食べたい放題と云ったような中には、信心は生まれないと云う事。
雑巾の一つも握ると云う事、やはり自分と云うものをその間だけでも空しゅうする事であり、犠牲にする事なのですからね。しかも思い付いた時だけじゃない、それが絶えず日々ですね、一粒の米でも良いから、それが私は生かされ拾い上げられていくと云うようなおかげを頂く時に、神様が喜んで下さらんはずはないです。ね、それを、ほんとに一生の行とさせてもらうような、私は、何かがです、信心させて頂くなら、一つ工夫されなければいけない。
そこにね、目に見えないところのおかげ、所謂、お徳と云うものは、どれがお徳ですか、これがお徳ですよ、目に見えませんものね。見えませんけれども、その目には見えぬ、その神様に喜んで頂くような、一つ、奉仕がです、ね、功徳になり、目に見えない、お徳になるところの、おかげになるんだと云う。信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いとおっしゃる。
これは非常に意味が深いのですから、私が申し上げたのは、それは一部の事です。まだ目に見えないおかげと云うのは、大変な事でしょう。ね、この功徳によってあまねく至上に及ぼすと云うような言葉が、仏教の中にありますようにですね、なったなら、一銭なら一銭、10円なら10円の、お恵みをさしてもらう、奉仕をさしてもらうと云う事だけでもです、その功徳と云うものは、遍く至上に及ぼすと云うような事、ようなことになって参りますと、これは、まぁ大変な広い事になり、大変な功徳と云う事。
その、目に見えないおかげと云う事は、響いていきよるから、こっちには分からないですもんね。もう一つそうした、まぁ限りのないおかげの事は別としましても、目に見えないおかげと云うもの、自分の心に感ずるそれをです、目に見えないおかげとし目には見えないけれども功徳、所謂徳が積まれていきよる、その事をです、ね、楽しみにさして頂けるような信心がなされてですね、私本当の信心じゃなかろうかと。
只、奇跡的なおかげ、所謂、その、現世利益(げんぜりやく)と云う事を申しますが、現世利益と云う事は、目に見えるおかげ。だから私共は、それもやはり頂かなければなりません。大難は小難、小難は又、無難におまつりがえどもを頂けるようなおかげ、頂いて頂かなければならんと同時にです、それと同時に、目に見えないおかげを、いよいよ心の中に頂いて、ね、為には、この功徳によって、と云ったような、何かが工夫されなければいけないと云う事なんです。どうぞ。